オオゼキのライブ感ある売り場と某大手スーパーの効率的な売り場から見る人間の飽きとAI時代にも生き残る文化的なもの

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今日行きつけの古くからある街の洋食屋でランチを食べながら、顔馴染みのオーナーと世間話しをしていてふと思う。こうした何気ない会話に対して大きな満足感を得る一方、どこにでもあるもの、効率的なもの、マニュアル化されたものにもうだいぶ飽きてきているのだなーと。

同じお金を払うのであれば、オフィスの近くにも自宅の近くにも、そして田舎の実家にもあるパスタ専門店より、日によって少し味にズレのあるものを食べて、毎回違う会話をしながら楽しむ方に喜びを感じたりする。その古くて新しいものに文化的な喜びを感じたりもする。

 

今日、タイムラインを流れきた伊藤穰一氏の「AI時代の仕事の未来 」という記事を読んでいてまさにこれと繋がった部分があった。

まずAIなどの技術が人を仕事から解放したとしても、人に対して仕事は必要であるということ。やっぱり、仕事はある種の社会的位置や生きる意味の源泉であること。やっぱり人間、暇になるとどうしようもなくなっちゃうんですね。

するとAI などの技術がいつの日か生産性の過剰をもたらして、金銭的には働く必要がなくなったとしても、人は相変わらず社会的地位を獲得し、仕事から得ている意味ある目的を得るための方法を見つけなくてはならない。

そしてこうも言っている。その社会的地位や生きている感覚を得るためにはもっと文化に踏み込んでいく必要があるということ。要は暇な分、何か考えたり、遊んだりして生きてる感を得てないとこれまたどうしようもなくなっちゃうんですね。

その第一歩としてふさわしいのは、技術や金融イノベーションと並行して、文化についての作業を始めることだ。それにより未来は何もすることがない無関心なガキどもの世界よりは、ペリクレス時代のアテナイと似たものになる。

AI、あるいは機械学習の進化は大量のデータ解析とその結果として、合理性では人間の判断をはるかに超えるスピードの分析結果という名のアドバイスをもたらしてくれる。

タイトルにあるマニュアル化されたスーパーマーケットは当然配送からレジから全て自動化され、最も安い値段で最も必要なものを人に届けてくれるようになる。今よりももっとトマトの値段も食パンの値段も、朝獲れの魚の値段ですら安くなるだろう。でも何かこれ以上流行るイメージがわかない。

一方で、そんな効率化の進んだ売り場を持つ大手のスーパーより、日々売り場が変わるオオゼキの方が絶対にいつも混んでいる。

魚の値段なんて、ハッキリいって結構適当で、絶対に土日より平日の方が安いじゃねーかこのやろーと思いながら、迷ってお刺身を買ったりしている。フルーツもあるものが毎日違う。世の中にこんないちごの産地があったのかなんて思ったりもする。それが堪らなく楽しく、ライブ感を届けてくれる。生きてる感を味あわせてくれる。

もしかすると上述の記事ではもう少し高尚な文化的なものを意図していたのかもしれないが、僕自身は世の中全体でみると、街の小さなレストランやオオゼキのようなライブ感のある小売、ネットの世界ではC2Cのように売り手も買い手もコミュニケーションを楽しみ、日々その場所に変化のあるものがある種そうした文化的な要請の部分を埋めてくれる存在になっていくのではと思ったりもする。

仕事を選べるってのはすごく貴重なことになる、時代ってことですね。

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